歴史認識とは何か

細谷雄一 著 歴史認識とは何か

【戦後史の解放Ⅰ】 日露戦争からアジア太平洋戦争まで

 

 本書は、学校教育では『やる前に時間切れ』になってしまう『現代史』を、国際社会の中での日本、という視点から概観している。

 これまでの現代史は拘束され窮屈になっている。それを『イデオロギー的束縛』『時間的な束縛』『空間的な束縛』と定義して、これから解放して、現代史を学ぶ喜びや心地良さを感じて貰うとしている。

 村山談話が発表される二カ月ほど前、過去の戦争(植民地支配や侵略行為)を反省する国会決議が採決された。しかし賛成したのは約230名にとどまり、反対や不満に思い欠席者数は、賛成を上回る241名になった。このことは日本国内でさえ統一的な歴史認識をつくりだすのが難しいかを示している。このような中で、村山談話が発表された。また村山談話は、これまでの曖昧な姿勢を示すことで、歴史認識をめぐる問題は外交的な妥協を維持してきたが、日本の立法府として明確な文章で公表したことで、日本と中国の間で、また日本と韓国の間で歴史認識をめぐる亀裂がいかに大きいかを明らかにしてしまった。

 広範囲な資料に基づいて、研究を深めていけば、普遍的に受け入れ可能な「歴史的事実」にたどり着け、この歴史的事実は他国の国民とも共有可能という想定があるが間違いである。あらゆる史料を読むことが出来ない。史料の取捨選択が必要となる。その取捨選択に歴史家の歴史観が反映されるのである。

 「親米」、「反米」というイデオロギー対立による束縛。

 歴史の歯車が、「一九四五年八月十五日」から動き始め、それ以前の歴史と戦後史が完全に断絶しているという歴史感は間違っている。これが時間的束縛である。

 日本における歴史教育は、「日本史」と世界史」に分かれている。

日本史の教科書には、世界の中での日本の位置づけが論じられていない。日本を、どのようなイメージを持って世界が見ていたのかが記述されない。世界で日本がどのように位置づけされていたのかが理解できない。

世界史の教科書には、日本が出てこない。二十世紀の歴史に日本が出てこないということは実際の歴史の中では考えられない。これでは二十世紀の世界において日本がどのような役割を果たしたのか、バランスのとれた視点を持てない。

これが空間的束縛である。

 

ここまで読んだところで図書館の貸出期限がきました。再度借り出しますが、時間がかかりそう。

 

終章を先に読む。

 戦前の日本が陥った問題は、平和主義に背いて軍国主義の道を歩んだことだけではない。より致命的だったのは、国際主義的な精神が欠落して、国際情勢を適切に認識できなかった。日清戦争以降第一次世界大戦までは、かなりの程度認識できていた。

国際主義の欠如と孤立主義への誘惑により、国際社会で孤立していった。

 だとすれば、国際主義を回復することが、戦後の大きな目的でなければならない。

しかし、今の日本は、戦前の日本が、軍国主義という名の孤立主義に陥ったとすれば、戦後の日本はむしろ平和主義という名の孤立主義に陥っている。憲法第九条のみに存在する尊い日本の固有の精神であるかのように錯覚すること、自国以外の安全保障に全く関心を持たないこと、は国際主義の精神の否定とみられる。

 他国を非難し、国際社会の不正義を罵り、世界大国であるアメリカを軽蔑し日米協調の精神を拒絶する、安易な選択は、戦前の日本と同じ孤立主義と同じである。

 

 本書には続編が予定されている。ここ前篇では二十世紀前半の日本が、後編では、二十世紀後半、日本が国際秩序の擁護者となる姿を描かれる予定。

 

 

 

 

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